こねこねこねこ

今朝というか未明というか夜中、子猫と遊んだ。
黒は人の姿を見るとぴゅーっと離れたところまで駆けていってしまって、倉庫の下からこっちをうかがっている。
見なければ大丈夫。
ということで夜中。
まず野良さんとまんまるふわふわの猫じゃらしで遊んで興味を抱かせる。
離れたところで母親が何やらふわふわしたものと格闘しているのを見ている。
といっても夜中の庭でクロさんは黒いので私の目にはよくわからないのです。
野良さんが飽きて離れたところで寝そべってしまうと、今度は自分の番とばかりにスタートダッシュのポーズをとるくろさん。
少しづつずつ(どっちですか?)近づいてくるくろさん。
わたしは草むらでふわふわをごそごそさせる。
ちなみに私は野良さんがいつも座っておねだりをするいすの上で体育座りをしつつ猫じゃらしを下に向けて操っているので体勢がきびしい。ひでぶ
1メートルの距離まで近づいてくろさんがふわふわに手を伸ばしたとき母が私に声をかけた。
黒産はぴゅーといってしまわれた。
母はトイレに起きてきて、私がテレビをつけっぱなしで寝てしまったと思ってテレビを消して窓の外に部屋を覗き込む変態親父を発見したらしい。
それは私。わたしは母親に変態親父呼ばわりされました。
蚊が部屋に入らないように網戸もきっちり閉めて外の窓辺の椅子の上にいたから。
べつに部屋の中は覗き込んでいないですけど。
そうして静かにしているとまたくろさんは近づいてきた。
1メートルくらいのところで左手を出しては引っ込め近づくのに躊躇する姿がかわいい。
ぴゅーっと行ってしまっては戻ってくるという往復が一回あたり私には三分くらいに感じられ、それが五回ほど繰り返された頃、
くろさんと私の操るふわふわは体全身をつかってじゃれ合うまでになった。
まあここら辺でわたしも日記書くの疲れたし、くろさんも遊び疲れたのか倉庫のところまで野良さんと行ってしまってもうこっちを見ていない。
わたしも母と一緒に二階へ上がって寝ることにした。
風呂から上がって十二時半頃から外にいたので一時は過ぎていたように思う。たぶん一時半。


今朝もまた喉が痛くて目が開く。ヤバい。
南側の窓も開けっ放しにすることにしたので冬の間中窓辺に置いておいたまんがを移動させる。
全巻並べて床においておいたドラゴンボールもカーテンレールの上に並べ直したので背表紙の続き絵がよりよく見えるようになったかも。
ちなみに悟空は二人いる。子供のときと、死んでワッカがついてるやつ。たぶん。
他にも二人いる人がいたような気がしたんだけど最後の新品で買った五冊は並べていなかったので、わからん。
だからワッカの悟空も気のせいかも。


南側の窓の外を見ると野良さんが倉庫の上にいる。
くろさんは見えない。


下へおりていくと野良さんが椅子の上にいて待っていた。
かりかりは昨日私が出しすぎて山盛り富士山になっていたのでまだ残ってるな、と思って皿を見た瞬間くろさんがそこにいたらしくぴゅーっと倉庫の方に行ってしまった。
けれどももう倉庫の下までは入らない。もっと手前で毛づくろいをしている。
野良さんにはミルクを少々。
それを飲んだあと野良さんは窓の前の草の上に寝そべっている。
私は時間がなかったので着替えていたら、黒産も野良のおなかのところにいた。
相変わらず人に気づくとぴゅーっと行ってしまうが、すぐに戻ってくるようになった。
野良さんのおなかで一人でじゃれて逆さまになったりしていてかわいい。
遅刻。
朝食はズッキーニ三切れ。


電車の中にちょっとモデル並みにかわいいコがいたけど立教女学院だった。


五分遅刻。
普段の講義だったら八分から始まるんだけど、今日はマザーテレサのビデオを見るのでもう始まっていた。
真っ暗で先生が一番後ろにいるのがわかったけど目が慣れるまで立っていた。やっぱりいつものように前の方に座ろうと思って先生の前を通るときに先生は何かを渡そうとしていたのかもしてないけど、わたしはぴゅーっと行ってしまった。
ルミちゃんの横にはもう誰かが座っていたので二列前の真ん中らへんまで入って座った。
前から2列目。すぐに私の横にも人が来た。
プリントが配られているのか周りを気にしながらビデオを見た。
スクリーンは結構大きい。
覚え書きなので端々間違いがあるとオモワルル。
マザーテレサは1910年生まれ。ユーゴスラビア人だと初めて知った。
十八のときに洗礼を受けて修道女になった。テレサは洗礼名。
1929年カルカッタの協会に志願。裕福な子女が通う学校の地理の教師を15年間した。教え方がうまく慕われた。
同僚の目から見ると「おとなしい普通の修道女」。
16年目何かの集会に行く汽車の中で、「貧しいものを救え」という神の声を聞いた。
マザーテレサカルカッタの貧困を見て救済に乗り出したのではなく、神の声を聞いて救済に乗り出した。
すぐに修道会に外で活動する許可を願い出たが、彼女を昔から知っている司祭は〜〜さえろくにできない彼女が、貧しく汚れた人々をどうこうできるわけがないと反対。
二年後に許可が下りた。三十八歳だった。
一人で、まず道ばたにいたウジにたかられる男性を洗ってやる。
なぜこんなことをするのだ。あなたを愛しているから。
路地を歩き回ってなすべきことの多さに絶望。
だが救いの手をくれる人がいた。〜〜さんが部屋の一室を貸してくれることになった。三十九歳のとき。ラッキー。
ここで神の救い宣教会みたいな団体を作る。(ただしくは「神の愛の宣教者会」)
最初の志願者は教え子たちだった。
青のラインのは行った麻のサリーで活動する。左肩に十字架。
十字架って元々は罪人を磔にするために作ったもので、キリスト教徒はイエスが磔にされた記念、尊敬・名誉・犠牲・贖罪・苦難の象徴として、礼拝の対象、装飾として用いる(広辞苑)とはじめて気づいた。
四歳のときに夜も空には雲があるのだと知ったときと同じくらいの衝撃を受けた。
そんなこんなで。
ゲネディ上院議員(字幕にゲネディって。)にあったりノーベル平和賞もらったりしたんだって。
祈れば通じるらしい。グアテマラでは政府に借りた土地で活動していたが、スーパーマーケットを建てるので立ち退けと言われ「私たちは愛を売ってる」と言い返して、
結局その土地の50年の使用権と、他の土地も借りちゃう。ラッキー。
イスラエル侵攻のとき、ベイルートの人々を救わなければならないと言う。
男三人とテレサが話し合う映像。
「三十八歳のときに最初の一人を助けたのと同じように、一人助けることから始めなければならない。一人一人けがをした人をこちら側へ運ぶ。」と主張するテレサ
男は「あそこへ入ることすら不可能である。戻って来れない。命を捨てることだ。」となだめる。
テレサは「軍の人に言えば大丈夫」と言う。
男は「神父だってこないだ殺された。そんなに甘く考えるな」「もう少し落ち着いたら行けばいい。」
テレサは「やれたらやるではなくてやらなければ」みたいなことを言う。
男と女の対比が印象的であった。
テレサベイルート在住のアメリカ大使(?)に連絡を取る。
「あの砲撃の音が聞こえないのですか。今は無理です」
「私は神に祈りました。明日には休戦になります」
「そんなに早くは休戦にならないでしょう、神にもう少し時間を差し上げたらどうですか」
「明日休戦になります」
「そうなったら入ることを許可しましょう」


休戦になったらしい。ヤバい。ラッキー...?


インドに帰るとテレサはシスターたちの笑顔に迎えられる。いつも微笑んでいなさい。微笑んでいない人には微笑ませなさい。


この世から貧困がなくなったら私たちは失業です。


いま書いたものが結構な分量消えてしまって嘔吐しそうです。
ESCを押したせいらしいけれども、復活のさせ方がわからない。
サルトルは『嘔吐』で「むしろ無くてもいいのに存在することへの不安、むかつき」を描いたらしいが、
わたしはいま存在するはずのものが無くてむかついています。


ナレーションは児玉清でした。


私はシスターが他人のために一生を捧げるのだと思った。
朝五時前に起きて夜九時過ぎまで貧しい人のために働くんでは自分のための時間がないじゃないか。
まんがが読めないじゃないか。
けれども哲学的考察のときに例えば「動物に心はあるか?」という問いがあればまず「心とは何か?」という定義付けから始める。
そのように考えると「彼女たちは自分のために生きていないのか?」→「自分のために生きること」とは何か?という風になる。
彼女たちはシスターなので単純に言うと存在理由が神のために生きること。それが自分のために生きること。
神のために生きることとは神を愛すること・隣人を愛すること。それが自分のために生きること。
だから彼女たちは全身全霊で自分のために生きているのである。
まんがをよむことは全然自分のために生きることじゃないわけ。


こうして私は自分のために生きることにむかつきを感じた。
(ちなみ聖書を読んでるときのむかつきは、何千年も続く家父長制社会の愚かさへの絶望。)
本当はズッキーニ三枚しか食べなかったせいとか、あたしより後に来た人が出席表持っててあたしが持ってないってのは横の人がまわしてくれなかったからという愚かな妄想とか、のせい。胃もむかつくし隣人もむかつく。


まんがの神様がいるんだったらまんがを読むことは神を愛でることだ。


神道はドグマがないので宗教じゃないらしいよ。